有限会社バナナレコード 代表取締役 田中秀一

ーこれまでの経歴、現在に至るまでの経緯を教えて下さい

やっぱり、小さい頃からプロのミュージシャンになりたくて、一生懸命やってたんだけどいろいろと壁があって、就職の時は長い髪を切っていたから、今の長い髪ははその復讐なんですよ(笑)。僕らが子どもの頃っていうのは、GS(グループサウンズ)の人気が凄かった。それを見たり聴いたりして、高校、大学と進むにつれ、より音楽に対する探究心が高まっていったんですよ。それでも欲しいレコードが名古屋では手に入らないもどかしさはあった。大学を卒業し、音楽の道を諦めて文房具の会社に就職。それですぐ大阪に転勤になったんです。その時、軽いカルチャーショックを受けましたね〜若者のいきいきとした表情や活発さ、それとレコード店の多さに。「同じ時期に日本に生まれたのにこの違いはなんだ? 」と、がっかりを通り越して、腹が立った。だからね、僕みたいな可哀想な子どもを作らない為にも、名古屋に帰ってレコード店をやろうと思ったんです(笑)。

ーそれからすぐに輸入レコード店を開業したんですか?

いや、やっぱり輸入のレコード店をやりたかったんだけど、どう試算しても1000万円はかかるなっていうのが分かっていたんで、やれそうにないなと。でも、名古屋の現状を変えたいというのと、自分の気持ちを裏切って文房具の会社に入社した自分を今度は裏切りたくないという気持ちが強かった。たまたま名古屋に帰る前に、大阪で知り合った人が、中古レコードの無店舗販売を会議室なんかを借りてやっていたんですよ。まだ中古レコード店なんて東京にも数店のみ、大阪には無い時代に。それをたまたま見つけて面白そうだな〜って、そこに行ったのが人生を変えたんだと今では思いますね。その人は今でも仲良くしている大阪の『KING KONG』っていう老舗のレコード店を経営している人なんだけど。その時は「輸入盤は無理でもコレなら面白そうだし、出来るかも知れない」って、それで名古屋に帰ってきたはいいけど、まだ大学卒業したてで何も分からないし、元手もない。だから、楽器とレコードを扱う会社に転職したんですよ。入る時に楽器が出来ますって言ったもんだから、楽器部門に回されちゃって(笑)。あと、「3年間で辞めるつもりです」っていう事も伝えていた。3年経てば仕事も面白くなり、責任も増え、会社も期待してくるじゃない? だから、そうなってから辞めますと言うよりも、最初から辞める時期が決まっていれば、会社側も使いやすいだろうと思ったから。

ー3年後、きっちりと念願のレコード店を始められる事になったんですよね?

そう、それからコツコツと貯金して、さぁ始めようかって時に「待てよ」と。「これから先、1年2年は休み無く働くわけだな〜。その前に海外はどうしても見ておきたい、体験しておきたい」って思ったんです。それにはふたつの理由があって、「これからやる仕事の最先端が見たい」。特にN.Y.とL.A.とサンフランシスコ。それとヒッピーの聖地に行っておきたかった。これは、過去のしがらみなんかを捨て去りたいっていう思いがあってね。でも、いざ行ってみたら流行は終わっていたけど、これからのアメリカを作っていくんだというエネルギーに満ち溢れた若者を多く見て、改めてヒッピー文化の素晴らしさを感じてしまった。これは流行ではなく、哲学なんだと。そんな体験をしつつ、N.Y.に週貸しのアパートを借りて、昼はレコード屋巡り、夜はライブハウスっていう生活を繰り返してた。その頃気付いたのは、日本は新譜を並べているだけ。でも、アメリカは店主の個性を反映したラインナップになっていたんです。「俺のオススメはコレだ。知らないモノより、聴いて良かったモノを置いている」…そんなやり方を目の当たりにして「このやり方でやるべきだ」と、自信を持って帰国しましたね。

ーついに『バナナレコード』が始まるわけですね?

名古屋で商売をやるなら、どうしても中心の栄でやりたかった。「お金がないから初めは隅っこでやって、ゆくゆくは中心」っていう考えよりも、「最初から中心! 」っていう考えだった。でも、壁にぶち当たるわけですよ。当時の名古屋は“地下街の街”っていうイメージだった。その地下街にお店を出している人=お金がある人、顔が利く人。そんな大人達が名古屋を牛耳っていた。では、地上は? 規制のない雑多な感じの割に、角には銀行、証券会社が必ず建っている。例えば原宿なんかは、メインストリートから少し中に進むと家賃のグレードが下がったりするもの。だから、「資本はないけど、発想で勝負するんだ」という若い経営者達が裏から派生して街が形成されていった。ところが名古屋は、地下街がメインストリート、地上の主立った所は銀行・証券会社が抑えている。若手が伸びない街作りがされてしまっていた。怒りと意地を胸に、半年以上は栄の街を歩き回って物件を探したね。また、それと同時に稼がなければいけない。だから、栄町ビルの上にある貸会議室を定期的に店舗として使い、渡米した時に仕入れたレコードなんかを販売していた。でも、いきなり店舗で始めなくて良かったと思っている。というのも、その時に来てくれたお客さんの名前と住所を聞いていたから、開店する時には顧客が数百人いるのと同じ状況だった。けれども、物件探しには苦労したね〜そんな辛い体験があるから大須の若い経営者にも頑張ってもらいたいし、若手商業者が育たないと街に未来はないと危惧している。

ー当時のお店の状況、世の中の状況はどんな感じだったんですか?

まずね、僕が商売を始めた頃は、中古レコードの専門店っていうのは名古屋に1店舗もなかった。だから、この仕事を認知してもらうのに時間が掛かった。あと、未だに忘れられないんだけど、さっき話した大阪の同業の経営者に「名古屋はどんなモノが売れているの? 」と聞かれたから「こういうのだよ」って教えたら、「ビルボードTOP100しか売れてないね。大阪ならもっと面白いモノを求めて冒険をするお客さんがいるよ」って言うわけ。中古レコードは半額で買えるのに、誰もが知っているアーティストしか買わない名古屋の人達、っていう見られ方だった。「文化不毛、名古屋飛ばしと言われる県民性がよく分かった」って言われてね。ちょっとショックでしたね。音楽の裾野もそうだけど、深みも広げていかなければと思いましたよ。でも、音楽の趣味嗜好は難しい。人によって感じ方が違うから、オススメですよと売っても騙されたって感じる場合もある。だから、うちの従業員にも良い・悪いは人によって違うから言うなと教えるんです。でも従業員は、「では、なんて言えばいいんですか? 」って聞いてくる。その時は「僕は好きです」と答えろって言うんです(笑)。新譜レコード店と違って、中古レコード店はお客さんとの距離が近い。だから、「僕は好きです」と言ったら、「あの店長が言うなら間違いない」って感じてくれるんです。

ー認知されてきたと感じたのはいつ頃ですか?

う〜ん、3年くらい経った頃かな。生まれて初めて“石の上にも三年”っていう言葉が身に染みたもの。中古レコードの面白いところは、1回買うとハマるんだよね。半額で買えるから新譜に比べて2回楽しめる。それと、お客さん目線で価格を設定したっていうのも理由かも知れない。今でも、各店長の価格設定が高いと叱る時がある。それは、損して得をとるじゃないけど、一時儲かるだけじゃダメだから。各店舗の取り決め、責任者は各店長。もちろん、仕入れから価格設定まで。というのも、レコードやCDって特殊で、日本盤もあれば、英国盤、米国盤、ファーストプレスなどなど、同じ楽曲でも種類がいろいろとある。そうなると目利きが重要になってくる。だから、各店長に任せる。優秀な人材が『バナナレコード』という哲学を広めていくという考え方でやっている。

ー出店から認知されたなと感じるまで、仕入れは大変だったんじゃないですか?

仕入れはずっと苦労している(笑)。僕らの商売は一般のお客さんが飽きたモノを持ってくるわけだから、特定の仕入れ先なんかあるわけない。コツコツが大事になる。おかしな事に、売れない時にいっぱい入って来て、売りたい時に入って来ない(笑)、よく出来てるよ。仕入れ7分の売り3分と言ってね、良い物があれば売れるんですよ。その為にはネームバリューを広める事、No.1とNo.2とでは全然違う。まずは地域No.1になる事を目的にやって、知名度を増やす為に店舗を増やしてきた。

ー当時はやはり口コミの影響が大きかったですか?

いや、儲けたお金のほとんどを宣伝広告費につぎ込んだと言っても過言ではないくらい、広告を打ちましたね。一番ピークの時なんか年間3500万円くらいつぎ込んでいたんじゃないかな。音楽ジャンル毎に雑誌を変えて宣伝したり、新聞広告や深夜TVのスポット広告もやりましたね。そうそう、この間、知り合いが教えてくれたんですけど、You Tubeにウチのスポット広告の動画があるみたいなんですよ。なぜか僕の一番嫌いなバージョンだけなんですけどね(笑)。現在はスポットも雑誌広告もやっていないんです。というのも、年2回のアンケートをお客さんに行った結果、HPと友達から聞いたっていう意見が多い。だから、時代と共に認知されてきたし、アンケートでもそういう結果が出ているから、広告はやる必要がなくなりましたね。それよりも大須みたいな街に誰が見ても“バナナレコード”だという実店舗を構える方が、より効果的でしょ。

ーちなみに一号店はどちらに出店されたんですか?

大和生命ビルという建物があったんですよ、そこですね。2階の物件を探して、不動産をいろいろ回って、上ばかり見て歩いていたから、当時、帰宅する頃には首が痛くてね(笑)。でも、紹介してもらったのは地下だったんです。実際見てみたら悪くなかったので、その地下の14坪ほどの物件に決めた。出店時には新聞社とかTV局が取材に数件来てくれたね。それでも、当時は中古レコード店が認知されていなかったから、ほとんどの人がレンタルレコード店と間違えて来店していたくらい。ある時、高校生くらいの子どもを持つ母親から電話をもらって、その内容は「息子がおたくでレコードを買ったんだけど、変な病気が移ったらどうしてくれるの? 」っていうもの(笑)。そんなありもしない心配をする時代だったんですよ。

ー少し話は戻りますが、大阪と名古屋の売れ筋の違いを指摘された時、お店として変えた事はありますか?

(誰もが知っているアーティストしか買わない名古屋に比べて、冒険をする大阪)
う〜ん、それはお客さんが決める事だしね。…当時はどうだったんだろう。でも、ジャンル毎の特集を行って、“有名アーティスト以外にもこんな素晴らしいアーティストがいる”っていう見せ方、売り方は工夫してきたかな。ジャンル以外にも、例えば“雨の日に聴きたい一枚”なんていう特集も組んだり。ビルボードTOP100以外の特集を行って、お客さんがいろんな音楽に触れられる環境をウチが作るんだという思いでやってました。

ーでは、大島さんからの質問に答えて頂きたいです。ひとつ目「博学である田中くんのうんちくの仕入れ先は? 」をお願いします。

企業が繁盛するかどうかは経営者の人柄にかかっていると、僕は考えてるんです。その人の器以上には大きくならないっていう考え。で、一番簡単にその人の器を大きくするには、本を読む。本っていうのは、著書の人生観が詰まっている。つまり、100冊読んだら100人の人生観が学べる。僕は特に軍事関係の本が好きなんです。単に戦争好きっていう訳じゃなくて、軍事って最高の知性とすべての経済力のぶつかり合いなんですよ。だから、読む事にしているんです。そんな最高の知性の戦いを読み、経営戦略に応用する。ただ、僕が博学かどうかは分かりません(笑)。あと、経営者って、注意やアドバイスをくれる上の存在がいないじゃないですか。だから、本を読む事によって「こんな立派な人がいるんだ。俺はまだまだだ」と、謙虚に受け止める事ができる訳ですよ。

ーなるほど。ではふたつ目です。「この先、現役を退いた時のプランは考えている? 」をお答え下さい。

60歳になったらメディアデビューしようかと考えています。大須バンドを結成して(笑)。57歳になったばかりだから、あと3年だね。毎週土日に2時間ずつ、ドラムトレーニングをしてますからね。僕の腕前についてこれる人がいないので(笑)、スクリーンにCreamとかJimi Hendrixを映して、一緒に演奏してますよ(笑)。自分が遅いのに、スクリーンに向かって「おい、今日ちょっとテンポが速いぞ」とか言いながらね(笑)。

ーみっつ目の質問は、「僕とは違う感性のファッションはどのようにして? 」です。

何それ!? 僕がダサいっていう事(笑)? 大島さんはアメカジじゃないですか、僕は「Comme des Garçons」が好きなんで、系統が違うからですよ。ちょっと捻ったデザインが好きかな。中古レコードって割と繊細な仕事なので、繊細な洋服を着たり、繊細な気持ちを持っていないと商売が疎かになると思っているから、ラフな格好は着ないようにしている。ラフな気持ちにならないように、っていうところかな。

ー最後に名古屋の保守的な部分は、どうすれば変わると考えますか?

大島さんや我々が行動で頑張っていくしかないでしょうね。これは理屈で右向け左向けと言ってもしょうがない。そもそも、濃尾平野があり、三河湾もある、農作物も採れて、海産物も採れる、河川にも恵まれて、東京と大阪に挟まれ、良い物を比べられる、それに世界的企業もある。こんな恵まれた地域は無いよね。100年はかかるんじゃないかな(笑)。

でも、大須は良い街だと思いますよ。長年大須にいる人達が若い人達を排除しようとしていないし、若い人達は先人達に敬意を表している。儲かる以前に、みんな大須に店を持っている自分に喜びを感じているんじゃないかな。それは街を形成していく上で、すごく大事な事だと思いますよ。